「原爆ドーム」って元々は何の建物?名前や残った理由を徹底解説!

広島県の平和の象徴である「原爆ドーム」は元々どんな建物なのかをご紹介していきます。現在の様式になる以前の原爆ドームはどんな施設でどのような役割を元々担っていたのか、世界遺産になった理由や保存方法と共に詳しくご案内していきます。

「原爆ドーム」って元々は何の建物?名前や残った理由を徹底解説!のイメージ

目次

  1. 1「原爆ドーム」が元々何の建物だったのか調査!
  2. 2「原爆ドーム」って元々は何の建物?
  3. 3「原爆ドーム」が残った理由や名前の由来は?
  4. 4「原爆ドーム」は何年保存できるのか?
  5. 5「原爆ドーム」のアクセス&駐車場情報
  6. 6「原爆ドーム」の元々の建物は広島の名所だった!

「原爆ドーム」が元々何の建物だったのか調査!

中国地方ナンバー1の人口を誇り、中国地方経済の中心地でもある広島県。宮島を始めとした多くの歴史的建造物や、お好み焼きなど美味しいグルメが豊富に揃っており、日本全国や海外から沢山の観光客で賑わっています。

そんな広島県は、太平洋戦争中に長崎県と共に原爆を投下された街でもあり、現在でも平和の象徴として残されている建物があります。それが「原爆ドーム」で、広島市を訪れたら必ず観光に訪れる定番のスポットでもあります。

さて、この原爆ドームは、原爆が投下される以前は元々どのような建物であったのか、知らないという方が多いのではないでしょうか。ここでは、原爆ドームが元々は何の建物で、どのような用途で利用されていたのかを徹底紹介していきます。

名前から残った理由まで完全解説!

原爆ドームは、太平洋戦争時に原爆が投下されても、基礎部分が奇跡的に残った建物として現存している珍しい建物です。現在は原爆ドームと言う名前が付けられて世界遺産にも登録されている、世界でも珍しい建物でもあります。

この原爆ドームという名前が付けられる以前は、元々は全く違う名前で全く違う用途で広島市民に利用されていた建物でもあります。奇跡的に原爆から生き残った建物が何故原爆ドームと言う名前になったのか、何故原爆ドームとして残ることになったのか、その理由までご紹介し、平和の象徴原爆ドームの全てに迫っていきます。

「原爆ドーム」って元々は何の建物?

原爆ドームは、元々は太平洋戦争時に原爆が投下される直前まで、ある名前の建物として広島市民に利用されてきました。現在では当時の姿が想像できないほど半壊して残った建物であり、基礎部分のみが露になって皆様の前に建っています。

この原爆ドームは、太平洋戦争中まで、どんな建物であり、どんな名前でどんな役割と特徴を持っていたのか、詳しく見ていきましょう。

「原爆ドーム」の元々の建物の特徴は?

原爆ドームが元々はどんな建物であって、どんな名前だったのかをご紹介する前に、時を大正時代にまでさかのぼってみましょう。太平洋戦争が開戦する大分前の話です。日清戦争時に、広島県が本営の地として選ばれたことをきっかけに、広島県の特産品や特徴などをもっと日本に広めようとする動きがありました。

現在のようにテレビもなければSNSも普及していない時代には、直接広島県の特産物を見てもらう場所が必要となります。そこで計画されたのが、広島の特産品やその特徴をいつでも見る事ができる施設を作ろうという計画です。原爆ドームになる以前は、広島県の特産品を展示する施設として利用されていました。

モダンなヨーロッパ風の建物だった

原爆ドームになる以前に、広島県の特産品を展示する施設は、設計者をチェコ出身の建築家であったヤン・レッツェル氏に、施工は日本の椋田組が請け負う事になりました。ヨーロッパ風の外観が大きな特徴を持ち、ネオ・バロックの骨格は正に頑丈で、大正ロマン漂う風格が魅力的な特徴でもありました。

元々の建物の構造や内部は?

原爆ドームが最初に建てられた建物は、高さ約25メートルのドームを中心に置き、1590年代にヨーロッパで流行したバロック建築様式を用いて施工されました。作業や動きがしやすいゼツェオン形式を採用し、ヨーロッパの建築様式を結集した外観と内観が大きな特徴でもありました。

大正5年に「広島県物産陳列館」として設立

ヨーロッパの外観と内観を特徴とした建物は順調に工事が進み、1915年大正4年に完成し、8月5日に開館します。当初の計画通り、広島県の特産品を全国に販売しようと、様々な特産品を展示する施設として広島物産陳列館という名前が付けられ、1921年まで広島県の物産の販売に大きく貢献する事となりました。

そして、バームクーヘンが初めて日本でお披露目されたのも、この広島物産陳列館が最初でもあります。ドイツ人捕虜であったカール・ユハイム氏がヨーロッパの代表的なお菓子であるバームクーヘンを製造し、広島物産陳列館で販売が開始されました。

「広島県立商品陳列所」へと変更

広島物産陳列館が開館してから6年後の1921年大正10年には、広島県の特産品やバームクーヘンを更に広めようと、広島県立商品陳列所と言う名前に変更します。全国菓子飴大品評会も開催され、日本全国から多くの菓子職人や観光客が訪れて、広島県立商品陳列所は全国規模で有名になっていきます。

「広島県産業奨励館」に改称

広島県立商品陳列所の勢いは留まる事をしりません。広島県の特産品や特徴をアピールするだけではなく、美術品や工芸品などの展覧会に枠を広げて観光課客を呼び寄せていきます。

そして、1933年昭和8年に広島県立商品陳列所から広島産業奨励館へと名前を変更し、特産品のアピールや特徴の紹介だけではなく、広島県の歴史や文化を伝える施設として大きな貢献をしていきました。

内務省の統制会社の事務所として利用

昭和の時代に移り変わった日本は、混沌の世へと変貌を遂げていきます。1931年昭和6年には満州事変、1937年昭和12年からは日中戦争、そして1941年昭和16年からは太平洋戦争がそれぞれ勃発します。太平洋戦争が予想をはるかに超えた年月で進行しており、広島産業奨励館も業務を続ける所ではなくなってしまいます。

そして、広島産業奨励館は通常の業務を一切停止し、内務省の事務所へと生まれ変わります。土木関連の統制事務所としてその役割を担ってきた建物は、原爆投下直前まで、行政機関の統制事務所として活躍します。

広島の名所だった「原爆ドーム」

原爆ドームは元々、広島県の特産品や物産の特徴を世の中にアピールするためにできたヨーロッパの建築様式を採用した建物でした。大正ロマンあふれる建物は、広島県の特産品だけではなく、広島県の芸術や文化を広める魅力的な建物が大きな特徴として、広島県の文化を広める一大スポットとして活躍してきました。

そして現在は、平和の象徴として長らく保存されており、全く違った理由で建物が現存されています。世界遺産となった原爆ドームも、その昔は華々しい活躍をした建物であったという事は言うまでもありません。

「原爆ドーム」が残った理由や名前の由来は?

太平洋戦争で広島県は、原爆が投下されてしまうという悲しい悲劇に見舞われます。ほとんどの家屋や施設が爆風によって吹き飛ばされ全壊する中、原爆ドームだけ基礎部分が奇跡的に残り、現在でも保存されています。

さて、ほとんどの家屋や施設が全壊した強烈な原爆を受けてもなお、基礎部分が残って保存されている原爆ドームは、何故全壊しなかったのか、その理由が気になります。ここからは、原爆ドームの建物が残った理由と、原爆ドームと言う名前が付けられた由来について詳しく見ていきましょう。

残った残骸の形が名前の由来となった

太平洋戦争時に原爆が投下された広島市は、辺り一面焼け野原となってしまい、当時の惨状は見るに堪えないものがあります。

しかし、原爆ドームは復興を進める広島市の中でもひと際目立った場所にあり、しかも目立つ存在になっており、移動の目印などによく利用されるようになりました。そして、いつしか広島市民から原爆ドームという名前で呼ばれるようになりました。

原爆で全壊しなかった理由は?

原爆で広島市内のほとんどの家屋や施設が爆風で吹き飛ばされ全壊した中、原爆ドームが破壊されたのは本体部分で、中央に位置するドームと枠組みは壊れる事無く、今でも大切に保存されています。

さて、なぜ原爆ドームが全壊しなかったのか、その理由として考えられるのが、原爆が原爆ドームの真上で爆発した事により、衝撃波の直撃が免れた事が一つ挙げられます。そして、窓が多い建物であったため、衝撃を逃がしやすい構造にあった事と、ドーム部分の素材が銅の板で出来ていたため、銅の融点が低く爆風を逃がした事などが理由として挙げられます。

屋根とドーム部分が鉄骨で壁が厚かった

原爆ドームの特徴として大きなものとしては、ドーム部分の構成材が残った状態にある事です。ドームの屋根にある素材は、鉄ではなく銅を素材としており、これが原爆ドームの全壊を防いだとして大きな意味を持ちます。

通常は建物の枠組みには鉄が使われますが、原爆ドームの屋根部分は銅が使用されていました。銅は鉄と比較しても液体になる融点が低いため、熱で早く融解したため、爆風を逃がしたと言われています。そして、鉄筋を枠にして覆われている外壁も非常に厚く、逃がすと通過させるという条件が整って全壊を防いで建物が残ったと考えられます。

「保存」と「取り壊し」の議論が起こった

奇跡的に原爆から全壊を防いで建物が残った原爆ドームですが、広島市の復興が進むにつれて大きな局面を迎える事になります。終戦から長らく保存され残った原爆ドームは、1960年代に入ると風化の一途をたどる事になります。

原爆から全壊を逃れ、ドーム部分が残った原爆ドームは今にも倒壊しそうな危険に見舞われ、原爆の惨事を思い出すから取り壊してほしいという声と、平和と言う貴重な財源を残すために保存すべきだという意見が真っ向に対立し、原爆ドームの運命は広島市議会にまで議論が及ぶ事となります。

昭和41年に広島市議会で「永久保存」を決定!

原爆の悲劇は後世にまで及び、その悲劇は原爆ドームの今後についても波及していきます。当時の惨状を早く忘れたい人と、この悲劇を繰り返さないためにも保存すべきだという声が真っ二つに分かれた広島市でしたが、とある少女の日記が大きな決断を下すきっかけとなります。

1歳の時に原爆を経験し、16歳という若さでこの世を去った楮山ヒロ子さんの日記には「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでもおそる原爆を世に訴えてくれるだろうか」と書き残していました。これに感銘を受けた市民が原爆ドームの存続を求めて運動を起こし、1966年に原爆ドームを永久保存するという決議が広島市議会で下されました。

保存工事や修復工事をして維持している

永久保存の決定が下された原爆ドームですが、当時のままで現存させるにはあまりにも大変な作業が待ち受けています。今にも倒壊しそうな部分を少しづつ取り払い、経年劣化による風化の対策も施していかなければなりません。年数ごとに保存工事を実施し、3年に1度建物が健全かどうかの調査をくまなく行って原爆ドームは維持されています。

元々の建物の姿で残されているのはなぜ?

原爆ドームの永久保存が決定されたのですが、何故原爆前の建物に建て替えを行わなかったのでしょうか。それは、原爆ドームを永久保存する際に決められた基本方針があるからです。

必要な劣化対策だけを行い現状のまま保存する」という方針がある以上、むやみに手を加える事ができない決まりとなっています。目に見える外観の変更は一切行わず、万が一倒壊してしまった時にために元に戻せる修繕も施しており、原爆ドームを当時のままで現存する努力が行われています。

当時の話を聞くことはできる?

以前は原爆が投下されてから、実際に被爆した方が当時の状況を語ってくれるという語り部さんたちが大勢いて、当時の状況を詳細に解説してくれていました。

しかし、年月が経ち多くの語り部さんたちがこの世を去ってしまい、当時の状況を話してくれる語り部さんは年々減少していっています。そう遠くない未来に当時の状況を話してくれる語り部さんがいなくなるのではないかという懸念が持ち上がっています。

ユネスコの世界遺産登録されている「原爆ドーム」

原爆ドームは、戦争の悲惨さや核廃絶のシンボルとしてユネスコ世界遺産に登録されている建物であります。世界遺産の他に国の史跡にも選ばれており、多くの日本人や外国人が世界遺産の原爆ドームを一目見ようと広島市を訪れています。

世界遺産登録となった理由とは?

広島市で原爆ドームが永久保存するという決定が下されてから、原爆ドームを世界遺産に登録してほしいという声が年々強くなっていきます。しかし、歴史が浅く世界遺産の要件が揃っていないという事と、アメリカや中国、韓国を刺激するなど政治的理由が背景として、原爆ドームの世界遺産申請が見送られてきました。

しかし、アメリカの猛反対にあっても平和の象徴である原爆ドームをぜひ世界に広めたいという思いが叶って、例外的ケースとして世界遺産に登録される事となりました。

核兵器根絶と平和のシンボルへ

原爆ドームの真上600メートル上空で爆発した原爆は多くの人を犠牲にして、広島市を壊滅状態に追いやった悪魔の兵器です。もう二度とこのような惨状をいかなる理由があっても許してはいけない強い思いが集結して、原爆ドームは核兵器廃絶と平和のシンボルとして今でも広島に現存されています。

「原爆ドーム」は何年保存できるのか?

原爆ドームは、当時のままで保存していく事を基本理念として、倒壊しそうな危険な箇所だけを取り除いて修理と補修を繰り返して現在に残っています。風化の一途をたどる原爆ドームは後何年その姿を見る事ができるのか、一緒に見ていきましょう。

元々の建物の姿で残すのが難しい!

原爆ドームは、原爆が投下されてから永久保存が決定するまでの21年間、全く手を加えられず放置されていました。そのため内部の腐食が進んでいて、経年劣化によるダメージが深刻なものとなっていました。1回目の工事で何とか崩壊を食い止めたものの、その後には原爆ドーム維持のためにさらなる困難が待ち受けます。

それは、耐震工事などの補強がほとんどできないという事です。穴一つ掘るにも様々な制約が課せられる原爆ドームは、元々の姿で維持していくのが大変難しい建物でもあります。

文化財に指定された建物の工事には制約が!

通常の保存工事は、建築様式の最先端技術を駆使して、劣化を抑えたり多くの方法を使って現存する事が可能です。しかし、原爆ドームは国の文化財に指定されていますので、何をするにも国の許可が下りないと実行ができません。地盤を切り崩すことすらままならない原爆ドームは、表面だけの補修しか行えない建物となってしまっています。

保存が難しい「原爆ドーム」の見学はできる?

平和の象徴として国に認められた原爆ドームが、国が決めた誓約のために保存が難しい状態となっています。しかし、原爆ドームは外からでしたら見学する事が可能で、多くの方が原爆ドームを見学に訪れます。

しかし、内部は倒壊の危険がある事と、落書きなどのいたずらが相次いだために内部の見学はできないようになっています。

ストリートビューでのみ見学できる

内部の見学がままならない原爆ドームの中を見学するたった一つの方法があります。それはグーグルがコンテンツとして公開しているストリートビューを使用する事です。原爆ドームの外だけではなく、中もストリートビューで見学する事ができ、毎日かなりの数のアクセスが原爆ドームの中に集中しています。

「原爆ドーム」のアクセス&駐車場情報

建物の真上で原爆が爆発して、なおも現存している原爆ドームを一度は見学したいという方は多くいらっしゃるでしょう。ここからは、原爆ドームまでのアクセス方法と、お車で来られた方のために駐車場のご案内もしていきます。

アクセス情報

原爆ドームまでのアクセス方法としておすすめの交通手段は電車です。広島と言えば路面電車ですので、JR広島駅から広島電鉄の路面電車に乗りましょう。広島駅から20分ほど乗った所で原爆ドーム前電停に着きますので、原爆ドーム前電停の目の前が原爆ドームです。

駐車場は?

お車で原爆ドームに来られた方は、駐車場の心配もしなくてはなりません。残念ながら原爆ドームの専用駐車場は用意しておりません。周辺にあるコインパーキングや市営駐車場が多数ありますので、有料駐車場に車を停めて原爆ドームに向かいましょう。

「原爆ドーム」の基本情報

住所 〒730-0051 広島県広島市中区大手町1−10
電話番号 082-242-0787
アクセス 広島電鉄原爆ドーム前電停より徒歩約1分
駐車場 無し
URL 広島市公式サイト

「原爆ドーム」の元々の建物は広島の名所だった!

原爆ドームは、原爆が落とされる前は、元々広島の特産品や芸術などを広める名所として活躍してきました。太平洋戦争中は、内務省の拠点としてその役割を担い、物資の供給などに尽力してきました。

元々あった建物は、原爆と言う悪魔が全てをなぎ倒し、全壊は免れたものの多くの犠牲者を出してしまいました。もう二度とこのような事は起こってはならない、世界のどの土地にも原爆を落としてはならないという強い信念が原爆ドームに宿っています。

後何年現存できるかは不明の原爆ドームは、今も核兵器廃絶と平和を願って広島の地で活動を続けています。平和を願う日本が誇るシンボル原爆ドームにぜひ一度足を運んでみましょう。

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この記事のライター
MrPatariro
サッカー、ライブ大好きで全国を飛び回っています。ついでに旅行と観光、グルメも楽しんでいます。

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