2020年07月07日公開
2020年07月07日更新
歴史的著名人が眠る「小塚原刑場跡」は心霊スポット?首切り地蔵って?
東京都内に残るかつての処刑場「小塚原刑場跡」は、歴史があるだけではなく多くの著名人が眠る場所。人骨が発見されたことや、首切り地蔵があるので心霊スポットと言われる場所でもあります。そこで、小塚原刑場の歴史や首切り地蔵がどのようなものかを紹介していきます。

目次
東京の歴史的心霊スポット「小塚原刑場跡」
東京都内には長い歴史の中で使われていた鈴ヶ森刑場跡、小塚原刑場跡、大和田刑場跡などがあります。大昔に使用され多くの人が血を流した処刑場は、現代において心霊スポットと言われる場所になります。供養の気持ちがないと怖い思いをすると言われています。
当記事で紹介していくのは、処刑場の一つ「小塚原処刑場跡」になります。なぜ心霊スポットと言われているのかを当時の歴史から徹底調査しましたので、訪れる前にしっかりチェックおきましょう。
さまざまな著名人が眠る場所
多くの人が処刑された小塚原処刑場ですが、その数はおよそ20万人にも及ぶと言われています。多くの人の血を流してきた小塚原処刑場跡になりますが、その中には著名人も多く存在しました。
処刑後に埋葬された人や小塚原処刑場で処刑された著名人が多いことから、現代では歴史的価値の高い場所としても有名です。当記事では、小塚原処刑場跡地に眠る著名人についても触れていきます。
「小塚原刑場跡」の歴史や概要
【No.0249:鈴ヶ森刑場跡】東京都品川区南大井にある処刑場跡。小塚原刑場、大和田刑場と共に江戸三大刑場と呼ばれ、220年間で10~20万人が処刑されたと言われる。「多種多様な心霊現象が起こる」という噂がある。 pic.twitter.com/fYftTvyDZo
— 【閲覧注意】心霊スポット (@SpiritSpots_) March 6, 2020
徳川家光が死去した1651年に設置された処刑場で間口が約108メートル、奥行きが約54メートルになる処刑場です。使用されていた歴史は長く、閉鎖された1837年までの222年間多くの罪人が処刑されてきました。
まず初めに、小塚原処刑場がどのような場所なのかを知るために歴史について紹介していきます。心霊スポットとなってしまった原因も垣間見ることができますので見ていきましょう。
「小塚原刑場跡」は江戸三大刑場
小塚原刑場が使用されていた当時の江戸時代には、処刑場が5カ所ありました。その中の3カ所の処刑場を江戸三大刑場と言います。南の出入口にあった鈴ヶ森刑場、西にあった大和田刑場、そして北の出入口にあった小塚原刑場になります。
およそ20万人近くが処刑された処刑場ですが、小塚原刑場では年間約1000人は処刑されていたと言われています。
処刑された人は野ざらし
【吉田松陰•寺島忠三郎訣別の地】(周南市呼坂)
— 鳴海吉弥🐻🎯 (@shibawankok2) June 27, 2020
安政の大獄の際、江戸へ護送される途中、安政6年(1859)5月27日に呼坂で休息中に寺島忠三郎が駆けつけて駕籠の中の松陰先生と最後の別れをしました。
その際に交わされたとされる歌が刻まれた石碑もありました。#長州遊学2020 pic.twitter.com/oAWLQoMXBn
多くの人が処刑された小塚原刑場ですが、処刑方法は磔刑•火刑•獄門とされています。年間約1000人が処刑されていた小塚原刑場では、遺体をそのまま野晒しにしているのがほとんどでした。埋葬されることは無く、土をかけられても僅かだったと言われてます。
そのため、野犬などが簡単に荒らす事ができ大半は食い散らかされていました。野晒しにされた遺体は悪臭を放ち人骨は散らばり、当時の小塚原刑場は地獄のような光景だったと言われています。このことからも心霊スポットと言われるようになったと考えられてます。
そんな野晒しの状態を哀れみ1667年に弟誉義観が埋葬や供養のために創建したのが、回向院になります。この回向院には多くの歴史的人物が眠る場所となります。
特に有名な「安政の大獄」
井伊直弼が行った安政の大獄は、小田原刑場跡地の歴史では避けることができない出来事です。政策に反対した人をはじめ連座して処分された人数は100人を超えました。安政の大獄では、死罪にならなかった者も多かったですが、獄死や斬首された人も多くいました。
安政の大獄以前の1822年に起こった相馬対策事件を皮切りに、小塚原刑場は国事犯に対する処刑や埋葬をする場所になっていました。
そのため、安政の大獄で弾圧の対象となった人たちは小塚原刑場で処刑される形になり、埋葬も行われました。
1860年「桜田門外の変」
井伊直弼が暗殺された桜田門外の変。安政の大獄に終止符を打つことになる出来事で、明治維新へ繋がることから歴史上重大な事件として知られてます。
安政の大獄は、当時多くの人が不満を抱く出来事でした。そのため、井伊直弼の暗殺を考える人たちが集まり、1860年3月3日のその日に井伊直弼を暗殺することに成功しました。
当時安政の大獄に反対し集まったのが元水戸浪士になり、総指揮を取ったのが関鉄之介です。彼は、のちに斬首され回向院に埋葬されました。
1936年「二・二六事件」
昭和に入り1936年に起こったクーデター未遂事件「二•二六事件」になりますが、この当時には小塚原刑場はもう跡地となっています。ですが、二•二六事件も深い関わりがあります。
二•二六事件の計画や指揮を取ったとされる磯部浅一は、クーデター事件後の1937年に死刑となりました。その磯部浅一が埋葬された場所が、小塚原刑場の回向院になります。
首切り地蔵とは?
延命寺の首切り地蔵。小塚原刑場の刑死者を弔うために建立。
— 🍀さんぽ日記🍀 (@sanpodiary) January 16, 2019
日比谷線から見て、ずっと気になっていたので来る事ができて嬉しい。#お寺 #散歩 #日光街道 pic.twitter.com/UoC8JaHu3h
心霊スポットと言われている小塚原刑場跡には、首切り地蔵が置かれています。斬首や獄門が行われていた事から首切り地蔵と呼ばれていると言われてますが、本来は延命地蔵という名前になります。
首切り地蔵が置かれたのは1741年になり、約20万人の供養を目的として置かれたと言われてます。御影石を27個使い作られた首切り地蔵は、穏やかな顔をしていて誰でも参拝することができます。
また、長期にわたり野晒しにされていた遺体も、首切り地蔵が置かれたことによってしっかりと埋葬されるようになりました。
どこにある?
供養のために建てられた首切り地蔵ですが、小塚原刑場とは別の場所にあります。これは、現在JR常磐線が通ったことにより分断されてしまったからです。そのため、首切り地蔵があるのは回向院ではなく延命院という場所にあります。
先述したように、首切り地蔵は誰でも参拝することができます。ですが、週末や休日には多くの観光客が訪れる場所になりますので混雑していることも多いです。
「小塚原刑場跡」は医療の発展に貢献した
まず訪れるのは回向院と延命寺です。江戸時代の小塚原刑場跡で、杉田玄白の解剖の舞台でもあります。今でも多くの遺骨が地下に眠っていると言われます。#南北千住巡検
— 東京大学地文研究会地理部 (@UT_Chiribu) May 3, 2017
(66期地図長) pic.twitter.com/sjqoqkpgYG
多くの人が処刑されたことから心霊スポットと呼ばれている小塚原刑場になりますが、現代の医療の礎とも言えるほど貢献した場所でもあります。それが、医学の世界で有名な解体新書になります。
小塚原刑場がなければ、解体新書による医学は進歩していなかったかもしれません。それほどの貢献をした小塚原刑場の歴史について紹介していきます。
解体新書の翻訳にも役立った
解体新書といえば杉田玄白や前野良沢が知られてます。もともとはドイツ語で記載されていた「ターヘル•アナトミア」を和訳したのが解体新書になります。
当時の日本では解剖が禁止されていたが、罪人の遺体を解剖することは可能とし解剖士の手によって行われていました。その場に杉田玄白達は立ち会う形を取り、ドイツ語で書かれている内容を和訳していったとされています。
また、人体を流れる動脈をはじめ神経なども、小塚原刑場の解剖によって発見された内容と言われてます。
記念碑がある
回向院、小塚原刑場跡。観臓記念碑。#南千住 pic.twitter.com/9EeWdnlg8W
— 江戸川大猿子 (@edo_masimasi) December 2, 2015
解体新書の表紙に使われている記念碑が、1922年に設置されました。歴史的にも医学の進歩に繋がることに対する貢献度から建てられた記念碑は一度は見る価値があります。
また、解体新書に対しての解説も刻まれていますので、ぜひ近くまで足を運んで見学してみてはいかがでしょうか。
「小塚原刑場跡」に眠る歴史的著名人
江戸時代から、さまざまな歴史的事件に携わってきた小塚原刑場跡。多くの人が処刑された中には、歴史的著名人も多くいます。先述した安政の大獄や桜田門外の変などの事件だけではありません。
ここでは、小塚原刑場跡で眠る著名人に関する内容を紹介していきます。有名な名前が揃ってますので、小塚原刑場跡に行く前に知っておくのがおすすめです。
①吉田松陰
明治維新にかけて重要な人物を輩出したことでも知られている松下村塾で、精神的指導者として有名な吉田松陰。梅田雲浜が幕府に捕まったことがキッカケとなり、安政の大獄において連座されてしまいます。
安政の大獄で連座された吉田松陰ですが、幕府が行ったのは梅田雲浜の会話内容の確認でした。ですが、吉田松陰は暗殺計画を告白し死罪を宣告されてしまいます。処刑は牢屋敷で執り行われ、回向院に埋葬されました。
②頼三樹三郎&橋本左内
儒学者の頼三樹三郎と愛知全国福井藩藩士の橋本佐内。彼らもまた安政の大獄によって亡くなってしまいます。橋本左内は、もともと死罪の罪ではなく遠島の刑罰だったと言われてます。ですが、取り調べにより藩主を売ったことが井伊直弼を怒らせ斬首になったと言われてます。
頼三樹三郎は、将軍の後継者争いに対し朝廷に掛け合ったことが井伊直弼に危険視されてしまいました。その結果、橋本佐内とともに斬首されたとされてます。
③鼠小僧次郎吉
両国の回向院です。
— 羆嵐 (@kampefer3) February 5, 2019
鼠小僧次郎吉の墓所があります。
首は、小塚原刑場跡です。 pic.twitter.com/c850g8Mtl9
時代劇でも有名な鼠小僧次郎吉。大名屋敷を専門にする窃盗犯で、一度目に捕まった時は入墨を入れられ中追放となりました。ですが、次郎吉は江戸に戻ってきて賭博の資金を稼ぐために、また窃盗を繰り返します。
1832年に次郎吉は2度目の捕縛となります。次郎吉に与えられた刑罰は市中引き回しの後に獄門でした。その処刑が行われたのが小塚原刑場なので回廊院にて埋葬されました。
次郎吉は身内や家族が連座されることを防ぐため、妻や妾と直前に離縁したと言われてます。また、肉親とも縁を切っていたことから、現在も義賊として知られてます。
④悪役4人組
上記で紹介した鼠小僧次郎吉を含み、悪役4人組と呼ばれている人たちがいます。その一人が夫を毒殺したことで知られる高橋お伝。そして、自らの腕を弟子に切らせた腕の喜三郎。
最後に詐欺やたかりなどを繰り返していた片岡直次郎です。彼らも皆、小塚原刑場で処刑され回向院に並んでお墓があります。興味のある方は手を合わせに行ってみてはいかがでしょうか。
「小塚原刑場跡」の分断された回向院
続いて南千住小塚原回向院
— ゆき (@mioriwhite) November 7, 2018
橋本左内 吉田松陰の墓所があります
福井から再び墓石だけ移転されました
套堂があるのが左内の墓 pic.twitter.com/wIOh1QvMUu
小塚原刑場で野晒しに放置されていた処刑者達の遺体。その遺体を哀れんだことから建てられたのが回向院です。回向院という名前は墨田区にもあるため、小塚原刑場にあった回向院は「小塚原回向院」と呼ばれるようになりました。
そんな回向院ですが、現在は分断されてしまってます。ここでは、長い期間供養を行なってきた回向院について触れていきます。人骨が発見された事件などもあるので見ていきましょう。
1667年に南千住回向院建立
回向院が創建されたのは1667年、小塚原刑場の傍らに立て野晒しにされた処刑者達を供養することが目的でした。先述したように、1822年に起こった相馬大作の処刑以来国事犯に対しての処刑場と姿を変えたため、有名な著名人も処刑される場所となりました。
現在は小塚原回向院と呼ばれてますが、もともとは両国回向院の別院でした。南千住にあることから南千住回向院となり独立したことから小塚原回向院となりました。正式名称は「豊国山回向院」となります。
日本鉄道の土浦線工事で分断
供養をするために建てられた回向院ですが、1982年にJR常磐線の線路工事が行われるために分断を余儀なくされました。この分断によって首きり地蔵は南側へと行くことになりました。
回向院には著名人のお墓が残ります。さらに、戦後に発生した誘拐事件の被害者村越吉展を供養するために建てられたという吉展地蔵尊も北側にある回向院に残りました。
工事の時大量の人骨が出てきた
多くの人が野晒しとされていたと言われる小塚原刑場ですが、実際には人骨を地中に埋めていたのかもしれません。ですが、約20万人の遺体や人骨は相当な量になります。JR常磐線の線路工事では大量の人骨が発見されました。
ですが、人骨発見は線路拡張工事だけでは終わりませんでした。周辺の道路拡張工事でも大量の人骨が発見されています。
さらに回向院の境内が削られた昭和49年にも、樽に入れられた人骨が約200発見されたました。当時の工事で発見された人骨の山は資料として写真にも残っています。現在もまだ、発見されていない人骨が地中にあるのかもしれません。
現在南側は延命寺
北条氏に何矢か報いた里見氏。里見実堯・義堯・義弘の墓。どれがどれだか分からない😊 #延命寺 pic.twitter.com/pgKMQXW0f3
— ブラッケン (@burakken20) December 15, 2018
線路拡張工事のため分断を余儀なくされた回向院ですが、南側に分断された方は独立する形となり名前を「延命寺」と言います。当時の小塚原刑場跡があるのは延命寺側になります。
延命寺には小塚原刑場の歴史が開設されていますので、首切り地蔵に参拝に行く時には見ておくのがおすすめです。小塚原刑場を見学する場合には、回向院と延命寺のどちらも回ってみるのがいいでしょう。
「小塚原刑場跡」の怪奇現象は?
都内有名の心霊スポット「小塚原刑場跡」にやってきました。
— 奈良 光 (@ekakihikaru) August 2, 2015
人通りの多い普通の南千住駅前でした。
首切地蔵は見えました。 pic.twitter.com/alVFHMULcJ
心霊スポットと言われてる小塚原刑場ですが、心霊スポットして囁かれるように多くの怪奇現象の噂があります。ですが、実際に幽霊を目撃した話や体験談は見受けられません。また、駅に近いこともあり人通りが多い小塚原刑場跡は怖さも少ないでしょう。
霊感の強い人の場合は何かを感じてしまうこともあるかもしれませんが、供養の気持ちを持って訪れれば大丈夫とも言われています。そのため、怪奇現象として怖がる必要はないと言えるのではないでしょうか。
「小塚原刑場跡」へのアクセス情報
南千住には見どころがいろいろあります。駅近くには江戸二大処刑場で有名な小塚原刑場跡があります。吉田松陰や橋本左内は処刑後、ここに埋葬されました。 pic.twitter.com/XaJMXoFJ
— 新選組検定事務局長 (@shinsengumiken) May 17, 2012
小塚原刑場跡のアクセス方法になりますが、延命寺は南千住駅の南側になり駅からも見てとることができ、徒歩で約1分ほどになります。小塚原回向院は南千住駅の北側になり、駅から徒歩で約3分ほどの場所になります。
どちらも駐車場はありませんので車で行く場合には、駅の駐車場を利用するか、近隣で駐車場を探すようにしましょう。
「小塚原刑場跡」の基本情報
名称 | 小塚原処刑場跡地 |
住所 | 東京都荒川区南千住5丁目33-10 |
アクセス | 小塚原回向院•南千住駅から徒歩で約3分 延命寺•南千住駅から徒歩で約1分 |
「小塚原刑場跡」で日本の歴史を学ぼう!
解体新書に関連し、多くの著名人が眠る小塚原刑場。多くの人が処刑されたこの場所は、教科書にも載っている歴史的事件に関与している場所になります。使用されていた220年の長い歴史は、決して綺麗なものではありません。
ですが、この地に眠る人達がいたから今があるのかもしれません。歴史が苦手な人も、分かりやすく説明文が書かれているのも多いです。江戸時代からの長い歴史の一端を知ることができる小塚原刑場に、足を運んで歴史を学んでみるのはいかがでしょうか。