志賀島で発見された漢委奴国王の金印は本物?なぜ秘匿された?謎に迫る!

教科書にも出てくる福岡県・志賀島で発見された金印。この金印は、卑弥呼が古代中国・魏より贈られた「漢委奴国王」という、日本の王の象徴として贈られたと推測されています。しかし、なぜ志賀島で発見されたのか?本物なのか?偽物なのか?など現在も謎に包まれています。

 志賀島で発見された漢委奴国王の金印は本物?なぜ秘匿された?謎に迫る!のイメージ

目次

  1. 1博多湾に浮かぶ「志賀島」
  2. 2志賀島で発見された金印とは?
  3. 3志賀島の金印は偽物?本物?
  4. 4福岡市博物館でシンポジウムが開催
  5. 5福岡市博物館へ志賀島の金印を見に行こう!

博多湾に浮かぶ「志賀島」

福岡県福岡市にある志賀島(しかのしま)は、砂州で海ノ中道とつながっている陸繋島です。現在は、ドライブやデートスポットとして知られています。そんな志賀島は、教科書にも載っている歴史的な発見がされた場所としても有名です。

発見されたものは、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印。その金印には、歴史に興味がないひとでも一度は目にしてみたいと思う代物。「漢委奴国王」の金印は歴史的にも謎が多いため、古代日本の歴史ミステリーとして注目され続けています。

国宝の金印は福岡市博物館に展示!

現在、「漢委奴国王」の金印国宝に指定され福岡県立博物館所蔵として展示室に厳重に飾られています。金印は2.3cmの正方形・重さ108gで、博物館で実物を見つけた人は教科書をはじめとする本やネットで見たときのイメージよりも小さいので、そのサイズにまず驚くかもしれません。しかし、その小さな金印のために毎年十数万人が福岡市博物館に訪れています。

志賀島で発見された金印とは?

1784年(天明4年)福岡県志賀島の叶崎(かなさき)という場所で、農民が「漢委奴国王」金印を発見しました。見つけた人の名前は諸説ありますが、当時発見したときの口上書が複数残されており、金印同様に保管されています。

ただ、金印の発見には場所や見つけた人について謎も多く、その問題について現在も議論されています。そんな謎めいた部分も含めて金印について案内していきます。

漢委奴国王の文字

発見された志賀島の金印には「漢委奴国王」という文字が刻まれています。これは古代中国に存在した国・漢(前漢:紀元前206年~西暦8年・後漢:西暦25年~220年)の歴史書「後漢諸」に記されてた、西暦57年に後漢の光武帝が、奴国からの使者に対して奴国の王へ、下賜された金印だと推測されています。

当時、書簡を送る際に必ず泥で封をしていました。更に、どんな身分の人間が封をして送ったものかを判断するために、印鑑を所持することを役人や周辺諸国の属国に義務付けており、印鑑を持つことはその人の身分を証明する公印でした。また、金印には漢の王に認められているという権力の証としても効力を発揮していたと考えられています。

また、漢の金印は、「漢+民族名+国名+官号」の順で文字が刻まれています。このことを念頭に置いて、志賀島の金印に刻まれた文字を見てみると、この金印には、「漢が委(日本)民族の奴国(国名)の王」→「漢は奴国を日本民族の王として認めた」という解釈ができます。(※解釈については諸説あり。)

卑弥呼が贈られた金印とは違う?

日本で最初の歴史上の人物・卑弥呼は、中国の歴史書では魏の国が作成した「魏志倭人伝」で初めて登場しています。そして、卑弥呼は魏から「親魏倭王」に任ぜられ金印を送られたと記されています。発見された当初、この金印は卑弥呼に贈られた金印ではないかと考えられましたが、違うという結論に至っています。

なぜなら、後漢時代の出来事をを記した歴史書「後漢書」に、建武中元二(西暦57)年に光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれています。その印綬がこの金印で間違いないと考えられるからです。

「魏」は、漢が滅ぶのと同時期ぐらいに成立した国です。志賀島の金印が後漢の時代に作られたものであれば、卑弥呼に贈られた年代とのずれが生じてきます。

この年代のずれも違うという結論の要因の一つです。ただ、卑弥呼は日本国内に点在する国々や村を束ねた後、魏に使者を派遣しているため「漢委奴国王」の金印を最後に持っていた可能性はあると考えられています。

発見した人は志賀島の農民

金印を見つけた人は、百姓・甚兵衛(じんべえ)といわれており、甚兵衛が書き記した口上書が残っています。ただ、この見つけた人については諸説あり、見つけた人は甚兵衛ではなく秀治や喜平だともいわれています。

なぜ、見つけた人が特定されないのかは、金印を発見した際に、志賀島を治めていた奉行所へ贈られた文書から推測されます。

文書を紐解くと「百姓・甚兵衛が雇った秀治と喜平が、二人がかりでないとと持ち上げられない石を動かしたところ、石の下からこの金印が発見された」と推測され、このとから甚兵衛は、この発見を知らせるための代表者だったのではないかと考えられます。

発見した場所は?

発見した場所は、志賀島の叶崎(かなのさき)という場所です。発見された時の状況を伝える古文書は、発見した人である甚兵衛の口上書をはじめ、複数存在しています。当時の福岡藩おかかえ学者が記した鑑定所も残っています。

志賀島で出土した理由は謎

実は、この金印がなぜ志賀島で発見されたのか?その理由について結論は出ていません。博多の地は、「続日本書紀」(797年)に「博多大津(博多津)」という名前で、中国と交易をするための拠点の一つとして登場している。鎌倉時代の元寇のときに、元の軍勢との攻防戦を繰り広げた遺構がある。など中国とかかわる中で重要な場所であることは間違いありません。

しかし、金印に関しては、志賀島の叶崎のどの場所で発見された。という詳細についての記載はどの文書も記されておらず、卑弥呼が存在したといわれる弥生時代の遺構も発見されていません。このことから、なぜ志賀島で出土したのか?これは、現在に至るまで謎です

黒田家が代々保管していた

金印は発見された後、金印は江戸時代から福岡藩(現・福岡県)の藩主を務めていた黒田家が代々保管していました。明治維新後、東京へ転居した際に、黒田家に代々伝わるものとして東京国立博物館に寄贈されました。その後、1978年に福岡市美術館の開設に際して、黒田茂子氏(黒田長礼元侯爵夫人)が黒田家の資料の一つとして寄贈しています。

寄贈をうけた福岡市は1979年から福岡市美術館で展示され、1990年に福岡市博物館が開設されたのと同時に金印も移され、現在まで保管・展示されています。

志賀島の金印は偽物?本物?

志賀島の金印は、実は偽物ではないかという説がよく指摘されています。それは、出土したときの詳細が不明なことや、遺構が見つからないこと、金印に刻まれた文字の彫り方などに疑問を持つ学者が多数いるためです。

逆に、本物だと主張する学者も、本物である理由や根拠があるため、この件については現在も決着はついていません。なぜ本物か?偽物か?の議論が起こっているかを知ってから金印を見ていくと、ますます古代史に興味が湧いてきますので注目してみましょう。

本物か偽物かで長年議論されている

志賀島の金印は偽物ではないかという議論は大正時代頃から続いており、その決定打となるような資料は現在発見されていません。ただ、本物であることも「後漢書」に記されているというだけで、間違いなく本物であるという資料も発見されていません。

両派ともに、決定打となる資料や遺跡が発見されていないため、日本古代史のミステリーの一つとしてよく紹介されています。

偽物説が浮上した理由

偽物説が有力だと考えられる理由として、大きく4つの点が挙げられます。
 

理由① 発見された志賀島付近で奴国に関する遺構が見つかっていない
理由② 発見時の記録があいまい(文書はあるが、詳細が書かれてない)
理由③ 発見された江戸時代・中期の技術であれば、贋作が作れる
理由④ 滇王之印(てんおうのいん・紀元前109年頃のもの)の金印と比べると稚拙な造りであること

特に偽物として疑問視されているのは、金印に刻まれている文字の彫り方です。中国で発見された「廣陵王璽こうりょうおうじ)」は、志賀島の金印とほぼ同時期頃に作られたものとして研究者から知られています。

こちらは、「線彫り」でたがねと呼ばれる道具で一気に文字を彫り進めて造ります。彫られた線はほぼ均一の太さで金印に刻む高度な技術を必要とする彫り方です。

一方、志賀島の金印「漢委奴国王」は「さらい彫り」と呼ばれる彫り方で。文字の中心線を彫った後に、別の角度からもたがねを打ち込みます。この彫り方で、彫られた線は中央から端に向かって線が太くなり、印麺に対する文字の面積が大きくなります。この技法は江戸時代の印によくみられる技法なので、偽物ではないかと指摘されています。

金印以外に何も出土していない

通常、なにか遺跡が発見されれば周辺を発見すると、その周辺から遺構やその時代の調度品などが発掘されることが多々あります。例えば、京都市では新しく建築物を建てる際に、遺跡調査を義務づけている地域が指定されており、新しい遺構がないか調査をしています。しかし、志賀島には、金印が贈られたされる時代の遺構が見つかっていません。

他にも、石をどかしただけで1000年以上前の遺跡が簡単に出土するのか?という疑問も持たれています。そんな疑問から、見つけた人として口上書を書いた甚兵衛の存在自体が怪しいと考える人もます。

本物である根拠は?

本物説を唱える研究者は、偽物説に負けない説を唱えています。
 

根拠① 金印の文字は、作られたとされる後漢初期の文字の特徴と一致する
根拠② 金印のつまみの部分が、中国や各周辺地域で発見された同時期の金印と比較すると特徴が一致する
根拠③ 金の純度が後漢時代に作られた金印とほぼ同じ
根拠④ つまみの部分の部分が、後漢初期の金印と特徴が一致する
根拠⑤ 金印の大きさが後漢時代の一寸と同じ長さで作られている

本物説は、金印に刻まれた漢字の特徴を始め、中国や周辺諸国で発見された後漢時代の金印と比較しながら根拠を説明しています。特に金の純度については、江戸時代に似せた文字を刻む技術があったとしても、金の純度や金属の含有率まで揃えるのは難しいと指摘しています。

他にも、後漢の金印のつまみの部分は、漢から見て東西南北のどこの国かをわかりやすくするために動物を彫っていました。志賀島の金印と後漢前期に作られたと考えられる金印を比較してみると特徴に一致する点が多々見つかっています。

中国で発見された廣陵王璽

1981年に中国で発見された「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」は、偽物説での根拠にも登場してきますが、むしろ、この金印が発見されたことで、志賀島の金印が本物説であることを立証した出土品として知られています。

「廣陵王璽」は文献などから西暦58年のものであるとわかっています。「漢委奴国王」の金印を奴国王が授与されたのがこの1年前である西暦57年という点や、字体が酷似していることから同じ工房・同じ職人で作られた可能性が高いと推測されます。

黒田家学者の鑑定書

志賀島で発見されてから40年あまりの間に、この金印についてやり取りされた書簡や文献は10に近い数があります。福岡藩の学者・梶原景熙(かげひろ)は「金印考文」で、発見した人・甚兵衛の口上書に記された金印を覆っていた石について検証を行っています。

この検証については、信憑性が高く、国学者・青柳種信(あおやぎたねのぶ)や「金印弁」の著者である亀井南冥(なんめい)の子、昭陽(しょうよう)らの文献では梶原景熙(かげひろ)の文献の表現を採用しています。

この文献を採用して、石の形を検証すると石棺の可能性があり、金印は埋葬施設の副葬されたことになります。しかし、金印が作られた西暦57年から100年頃の九州北部では、銅矛や銅戈などの青銅器を一緒に埋納する習慣があったため、埋葬施設であるという決めてはありません。

何が問題視されている?

志賀島の金印についてもっとも問題なのは、なぜ志賀島から出土したのか?という理由がわからないからです。もし、金印が見つかると同時に、遺構が見つかれば研究されてなにか解明される可能性もありますが、遺構自体が見当たりません。また、金印の場所は誰も志賀島にあると推測するできなかったので、偶然でなければ発見できなかったといわれています。

現在でも、墳墓説、隠匿説、志賀海神社磐座説、祭祀遺跡説など数々の諸説がありますが、決定打となるものは一切見つかっておらず、謎のままです。

福岡市博物館でシンポジウムが開催

金印を所蔵している福岡市博物館では、本物か偽物かを議論するシンポジウムが開催されたことがあります。「本物派」「偽物派」の各研究者が「なぜ○○なのか?」と根拠と考える自分の研究資料を提示しながら意見を交わしました。

白熱の議論が展開された

この議論は両者一歩も譲らず、この議論を聞いていた聴講者たちも「賛成派の意見に信憑性がある」「反対派の意見は理論的」と意見が分かれたようです。結果は引き分けに終わりました。ただ、この金印が日本の歴史における重要な資料であることは間違いありません。

もしかしたら、「現存する法隆寺が本当に飛鳥時代に建てられた最古の木造建築物なのか?」という議論のように、永遠に決着がつかない問題かもしれません。

新しい視点も?


このシンポジウムの中では、福岡市役所・埋蔵文化課に所属している職員の研究も発表されています。研究内容では、漢が周辺諸国の位置をわかりやすくするために東西南北に分けて動物を彫っています。そのつまみの部分にが、作り変えられているのではないかという、新しい説が生まれました。

蛇が彫られているつまみの部分を観察すると、前足や後ろ足があるようにも見え、蛇とは程遠いイメージです。当時つまみの部分には、「南=蛇」「北=ラクダ」のデザインが採用されていました。

このことから、漢は奴国が北にあると思い込み、初めはラクダで細工をしたものの、途中で間違いに気付き、あわてて蛇の細工に変えた可能性があると指摘されました。

日本に眠るもう一つの金印とは?

日本には、もう一つの金印があるといわれています。それは、古代中国の国の一つ・魏が残した歴史書『魏志倭人伝』に記されている「親魏倭王」の金印です。これは、魏の王が卑弥呼に贈った金印とされています。

古代、金印は公的なものだったため、中国の通例では当人の死後、返還される通例がありましたが日本のような辺境地では返還されずにそのまま日本に残っているという説があります。もし、この金印が発見された場合、その場所が「邪馬台国」の候補地として一気に有力になる可能性を秘めています。

福岡市博物館の基本情報

名称 福岡市博物館(ふくおかしはくぶつかん)
住所 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
開館時間 9:30~17:30(入館17:30まで)
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日休館)
電話番号 092-845-5011
アクセス 【車の場合】
福岡都市高速道路・百道ランプから約3分
【電車の場合】
市営地下鉄・西新駅→徒歩約15分
【バスの場合】
博多駅バスターミナルから「能古渡船場」または「藤崎」行乗車
「博物館北口」停下車
天神バスターミナルから「能古渡船場」「藤崎」
「マリノアシティ福岡」「福岡タワー」行きのどれかに乗車
「博物館南口」停(福岡タワー行のみ福岡タワー停)下車
駐車場
公式URL 公式サイト
その他 館内にはミュージアムショップ・喫茶店・談話室あり

福岡市博物館へ志賀島の金印を見に行こう!

日本の国宝に指定されている、志賀島の金印は小さいながらも、古代の謎がたくさん詰まっています。卑弥呼の時代の日本には文字がなかったため、明確な資料が残っていません。中国の歴史書に記されている内容と整合性を確かめる唯一の手段です。

それでも、少しずつではありますが現在も弥生時代以降の遺跡が各地で出土され、謎の解明に研究者が没頭しています。定期的に、テレビや博物館などのシンポジウムでその途中経過を発表されていますのでそういった研究発表を見ながら、福岡市博物館へ本物の金印を見に行ってみましょう!

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